今年もReraに寄付しました。そして石巻に10年ぶりに行ってきました。

今年も例年通り、宮城県石巻市で活動するNPO法人移動支援Reraに、ポストカードの売り上げの一部を、赤い羽根共同募金みやぎチャレンジプロジェクトを通じて寄付しました。
今年は合計で52110円です。
レストラン牧舎、東一条ギャラリー、しれとこくらぶ、手作りクレヨン工房tuna-kai様、東京都美術館ミュージアムショップ様、およびネットショップうしのつむじにて、チャリティーポストカードをご購入下さった皆様、本当にありがとうございました!

下記リンクより宮城チャレンジプロジェクトのReraのページへ飛びます。
よければご覧になってくださいね。

いのちをうつす展の作品搬出で東京へ行った後、実に10年ぶりに石巻へ行ってきました。
2011年、2014年にReraのお手伝いに行って以来の石巻でした。

日和山から南浜を眺める

あれからずっとReraの活動の報告は見ていましたし、代表をしている友人の村島さんとも連絡をずっと取っていたので、なんとなく知っているような気になっていた石巻。

2011年の7月に訪れた時は津波の被害の大きさに言葉を失い、避難所やできたての仮設住宅から、病院やお風呂へいく被災者の方たちの送迎。
2014年はまだまだ残るがれきの山を見ながら、仮設住宅とやはり病院の送迎がメインだったように思います。

今回村島さん夫婦にあの時行った場所を車で案内してもらったのですが、大きな仮設住宅団地だった場所は別の建物が建ったり、ソーラーパネルが建っていたり、何もない土地になっていて。それとは別にマンションみたいな背の高い復興住宅が建っていたり。津波でさらわれてしまった低い土地は完全にきれいな公園になっていたり、そしてもう当たり前ですががれきの山もなく、製紙工場の煙突からは煙がもくもくと出ていて、ああ、何も知らされなければ普通の平和な地方都市みたいだなあと、10年という時間の積み重ねを感じました。

津波の被害を伝える施設をいくつか見学しました。
南浜地区のみやぎ東日本大震災津波伝承館では、2011年の津波がいかに強いものだったか、それ以前にも繰り返し津波が襲った歴史などわかりやすく展示してありました。
真新しい円形の建物の、屋根の高さが津波の最大高さだったというのには驚きました。
震災前、南浜がどんな場所だったのかという写真もいくつも展示されていて、ああ、私は震災後の石巻しか知らなかったんだという当たり前の事に改めて気づかされました。
ここにたくさんの家があって、人が暮らしていた時の事を知らず、あの震災後の景色しか知らなかったのだと。
きれいに整えられた公園に、保育所の基礎だけが残されていました。
ここに通っていたこどもたちはみんな山に逃げて無事だったそうです。

みやぎ東日本大震災津波伝承館。この屋根の高さまで津波が来たそうです。
公園の中に残された門脇保育所の基礎

その後すぐ近くにある、津波の後火事で焼けてしまった震災遺構の門脇小学校の向かいにある伝承交流施設MEET門脇へ。
津波を知らない子供たちへの防災教育の場でもあるというこの施設では、こどもの時に被災した方の証言が漫画になっていたり、避難後の行動が命を分けることが分かりやすく展示されていました。
NPOの活動の記録も残っていて、2011年は毎晩たくさんのボランティア団体の報告会が行われていて、私もそこに一度だけ行った記憶があるのですが、その時のReraの報告書が残っていてそれを発見したり…。2011年当時本当にたくさんのボランティアが活動していたのを写真を見て思い出しました。Reraのように今もずっと継続して石巻の問題に向き合い続ける団体は少ないかもしれませんが、それぞれの団体や個人が、被災地に来て活動していった記録が、またあらたな災害が起きた時に確実に引き継がれていくのだという頼もしさも感じました。

MEET門脇と、奥に見える震災遺構門脇小学校
レラのポロシャツも展示してありました。持ってる!
ここでつい買ってしまった、有名なあの缶詰。


どこに行きたい?と聞かれてずっとひっかかっていたのが大川小学校と雄勝でした。

大川小学校はさんざんニュースにもなりましたから、おそらくご存じの事と思いますが、北上川の河口近くにあった小学校で、ほとんどの生徒が逃げ遅れてしまった場所です。
2011年、Reraの送迎の合間に、確か神戸から来ていた熟練ボランティアのおじさんと、もう一人のボランティアの人と、見に行ったのでした。
2011年に行ったときは写真はほぼ何も撮りませんでしたが(撮れなかった)、鮮明に覚えている場所です。
津波の威力でねじ曲がった鉄筋。どれだけの強さのエネルギーだったか。
この場所を残すことについては賛成意見ばかりじゃなかったと聞きます。
新しい伝承館に、被災以前の写真が残っていました。
学校だけでなく、集落ごと消えてしまった事。
海側から、川から、2方向から津波が来たこと。
私がこの学校の先生だったとして(教員免許を一応持っていますから他人事ではないですね)、裏山の急な斜面に避難する指示を、はたして出せただろうか。

震災遺構大川小学校



雄勝、女川は、地形的に津波の被害が激しかった場所で、美しい湾の周りにあったはずの町があらかたなくなってしまっているのを見て、2011年当時強く衝撃をうけました。
雄勝は硯の産地なんだよ、と確か地元のボランティアの人に当時教えてもらって、まったくピンとこなかったのですが、硯の産地というのはすごく印象に残っていて、いつかここで硯を買うぞと思っていたのでした。

三回目の雄勝は、高い防潮堤と、かさ上げされた場所に立つきれいな雄勝の石(スレート)をあしらった復興住宅、大きな道の駅と雄勝硯伝統産業会館というこれもスレートで覆われた立派な硯の伝統文化を伝える施設がありました。
雄勝の硯は室町時代から続く産業で、かつては国内の9割のシェアを誇った事もあったとか。
私が小学生の時に使っていた硯も雄勝の石だったのかもしれません…(そういえば私は小学校の頃何年も習字を習っていたのでした、今思い出しましたが)。
一緒に回って下さった方のご縁で、雄勝の地元の方にお会いして少しだけお話を伺う事もでき。

実際に被災していない私は、災害は最後は復興して終わるんだとぼんやり思っていたけど、「復興」とは元通りになることじゃないし、住んでいる人達の思いももちろん人それぞれで、ふるさとを思う気持ちも人それぞれで。
私は被災した後の石巻しか知らないことが本当に悔しいなと思いました。
被災前の石巻に、雄勝に来ておきたかったな。
硯を一つ自分へのお土産に買いました。
ちゃんと墨を擦って、使ってみようと思います。

高い防潮堤に覆われた美しい雄勝湾
自分へのお土産。


その後夕方になってから女川へ行き。
少ししか見られませんでしたが、女川はとてもきれいにリデザインされた素敵な街に変貌していました。
新しくできた商店街は土日は観光客でにぎわっているのだとか。
新しい駅も温泉付きでとってもおしゃれでした。
スーパーには女川産の魚がたくさん並んでいて。
でもきっとここまで来るのにたくさんの人の苦労や努力があった事でしょう。
それでも被災した交番の建物がものすごい力で押し倒されたまま移築されており。
被災の記憶を忘れない事が、新しい被害を防ぐことになるという、強い意志を感じました。

温泉付きの女川駅。温泉の中のタイル画もシンプルかつかわいかったです。
スーパーおんまえや。2020年に店舗を再建したばかりだそう。近所にあったら通いたい。

私は10年ぶりに来たけれど、10年ここで頑張ってきた人たちがいて、それぞれの思いと行動があって、今があるんだと改めて思いました。そして、これからも「復興」は続いていくことも。

案内してくれた村島さん夫婦と毛利さん、Reraの伊藤さん、本当にありがとうございました。

最後に美味しいもの情報。地元の毛利さんお勧めのそば処もりやのカレー南蛮そばがめっちゃ美味しかったです!!中のおそばが茶そばで、ほんのり甘くて初めて食べる味でした。こういうのは地元の人に教えてもらわないと食べられないやつです。

これぞ地元グルメ!


そんなわけで、長々書いてしまいましたが、10年ぶりに石巻に行けてよかったです。
もうすぐ東日本大震災から14年。それでもReraが石巻で必要とされる限りは、ずっと応援しようと思います。

観光に行って、美味しいもの食べて、震災遺構で自分の身にも降りかかるかもしれない災害に思いを馳せる、という旅行プランはきっと良いものになると思います。ぜひ、東北の被災地に今、行ってみてほしいです。

そして最後になりましたが、能登の震災について。

本当に日に日に信じられないような被害をいまだ目にするような毎日で、被災した方々はどんなお辛い気持ちでおられるかと思うと自分の無力感に苛まれますが…。

どうか少しでも健やかに過ごしてくださいますように。

そして現地で活動している方々には本当に頭が上がらない思いです。

きっと長い戦いになると思いますので、私も少しずつできることを探りつつ、現地の状況に関心を持ち続けたいと思います。